takubok10のブログ

映画鑑賞が趣味。映画について語ったり、感想を無性に書きたくなるときがたまにある。それをブログにしてみました。

『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』感想 あえて【良かった点】・【惜しかった点】をあげてみる

 上映開始早々、酷評が目立つアニメ映画『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』。

 

 筆者も同じように、なかなか好評価を与えられない作品だったと感じた。

 

 しかし、それでも良かった点と惜しかった点は少なからずあった。

 「ネットでの酷評は見飽きた」、「私はいい作品だと思った」、「これから観ようかどうか迷っている」人たちに向けて、あえて映画の良かった点・惜しかった点をあげていこうと思う。

 

私が一番言いたいことは、惜しかった点に書かれているので、そこに飛んでくれても構わない。

 

ただ、筆者は原作を観ていない。そのため、単純にアニメ映画として『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』を観た感想になっている。コアなファンからすれば異論はあるかもしれないが、そこはご了承願いたい。

 ※ネタバレも含まれているので注意

 

【良かった点】

  • ヒロイン「ナズナ」の魅力~初恋の想起性~

 ナズナには、男の子なら誰でも経験したことがある思われる【初恋】を、喚起させる力があった。

 

 少し上からものを言うような強気な姿勢や態度に、何か憎らしさだけでなく愛らしさを感じてしまう。

(ナズナの顔に留まったトンボを典道(のりみち)に取らせるシーン、浴衣からワンピースに着替えるシーンなど、多々)

 誰からも縛られまいと、蝶のようにヒラヒラと舞い逃げるが、いとも簡単に何度も捕らえられてしまう儚さと、その悲痛な叫び。

(母と義父に何度も捕まり、典道(のりみち)に助けを求めてもがき叫ぶシーン。)

 

 ストーリー全体を通して、何度も「ナズナ」に、若かった恋心を何度もくすぐられました(笑)。

 

 時間を巻き戻して何度もやり直す物語はたくさんある。しかし、この映画では、巻き戻される度に現実世界とは少しずつ異なった世界へと変わっていく。

 これがキーポイントで、題名である『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』に繋がっていく。

 この発想は非常におもしろかった。この設定により、世界が変わっていく怖さと、それでも典道がナズナと一緒に居たいという思いをくっきりと浮かび上がらせた。

 

 

【惜しかった点】

【ここに私が最もこの記事で言いたかったことを述べる。】

  • ナズナが母を見る表情の変化を、もっと活かせたのではないか?

 

 ナズナは映画のなかでずっと、自身の母親を軽蔑する態度をとっていた(母はナズナの父が亡くなった1年後、すぐに再婚し、ナズナが転校することを無理やりに迫った)。

 

 しかし、3回目のタイムリープ後、ナズナを案じて涙を流す母の姿を、ナズナは電車の中から偶然に目の当たりにする。

 それまでは「何をしてでも自分達で生きていけるわ」と豪語していたナズナとは打って変わり、母を想い、切なくなる表情をふと浮かべた。

 

 この表情は非常に真に迫るリアルさがあった。

どんなに強く自由に見えても、ナズナだってまだ中学生である。どんなに母を憎んでも、どこかで愛さずにはいられない「自分」もいるのだ。

 

 実は、この繊細で美しい場面を、さらに活かせるシーンがあった、私は考えている。

 それはどこのシーンかというと、クライマックスである。

 

 クライマックスでは、あの不思議な丸い石が花火のように打ち上げられ、砕け散った。そして、丸い石は人が見たいものを見せてくれる石だということが分かった。もっと厳密に言えば、石は、一緒に居たいと思う人との幸せな世界を見せてくれる(と私は解釈した)。

 

 そこでナズナが見た、「彼女が見たい世界」とは、都会に出て典道と一緒に居る世界だった。

 

 私はここで思った。

なぜ、母と一緒に居る幸せな世界を「ナズナが見たい世界」として描かなかったのか?

 

 確かに典道と居たいという純粋な恋心は、ここで描かれるべきだ。

 しかし、そもそもナズナはなぜ典道と駆け落ちしようと思ったのか?

 それは、今居る世界(母とのギクシャクが絶えない世界)から脱却しようと試みるためである。

 だから、母と居る幸せな世界は、「ナズナが見たい世界」として描かれるべきだったのではないか。

 

 そのシーンがあることで、良かった点で述べた【初恋の切なさ】もさらに表現できたのではないか?

 

 初恋の真骨頂は、その「届かなさ」であり、「自分の無力感」でもある、と私は思っている。

 

ナズナが本当に欲しいもの(母との幸せな世界)は、典道がどうしたって与えられるものではない。そんなやるせない典道の気持ち、典道の初恋を、最後に表現できたのではないだろうか。

 

 

『メアリと魔女の花』感想 【“ある3人”に向けて制作された『メアリ』? エンドロールで泣けた理由】 ※ネタバレ注意

 お世辞にも『メアリと魔女の花』は絶賛できる映画ではなかった。しかし、私はエンドロールで、涙を流さずにいられなかった。
 
 それは、この映画『メアリ』が、“ある3人”に向けて作られた映画だった、と分かったからでもある。

 私自身の、そんな個人的すぎる涙の訳を、このブログで述べていきたい。


【『メアリ』の評判】
 その前に、まずは『メアリと魔女の花』がどのような評価を受けているかを見ていこう。

 SNSやWebサイトなどで『メアリと魔女の花』の感想を見てみると、あまりかんばしくない印象を受ける。感想コメントには「期待して行ったのに…」と言ったコメントが目立つ。

 その期待とはもちろん、「ジブリ映画」に対する期待である。観客の多くはやはり、これまでジブリが生み出してきた傑作級の映画を期待して、劇場に足を運んでいたようだ。



【「スタジオポノック」について】
 しかし、この『メアリと魔女の花』は「スタジオジブリ」で制作されたのではなく、新しいアニメ制作会社「スタジオポノック」によって作られた。

知っている人にとっては情報が重複してしまうかもしれないが、知らない人のために「スタジオポノック」についての説明を入れておく。

  “株式会社スタジオポノックは、アニメーション映画制作会社です。2015年に設立したばかりの、まだ出来立てホヤホヤのスタジオです。スタジオジブリ作品「借りぐらしのアリエッティ」「思い出のマーニー」の米林宏昌監督の新作映画を作るために、「かぐや姫の物語」「思い出のマーニー」の西村義明プロデューサーが設立しました。”
(株式会社スタジオポノックHPより抜粋)

 「スタジオポノック」は、ジブリ出身の米林監督と西村プロデューサーが中心となって、ジブリの系譜を受け継ぐために立ち上がったアニメ制作会社なのだ。


ジブリの模倣?】
 ここからようやく映画自体の感想に入るが、実は私も大して変わった感想を持っているわけではない。

 ネット上で見る多くのコメントと同様に、「ジブリのパロディー映画」だと感じた。

 しかし、その事について、制作者サイドは違和感を感じていないことが、西村プロデューサーのインタビューから伺える。

  “(西村義明プロデューサー)『米林監督もクリエイターたちも、この作品の雰囲気とかキャラクターに対してまったく違和感を持っていません。ジブリとは違う世界を作りたくて始めたわけではないからです。「これじゃ、ジブリと間違えられちゃう」と仮に言われても、「間違えられて何がいけないの」としか、感じなかったと思います。僕らはジブリの志を継いでいくとしか思っていないわけですから。』”
(映画『メアリと魔女の花』はニセモノなのか(後編)スタジオポノック 西村義明 2017年08月08日 12時45分、読売新聞より抜粋)

 このコメントに対して、「いやいや、じゃあジブリのパクリを生産して行くだけのスタジオなのか?」と誰しもが疑問に思うことだろう。


【ある3人に送られた『メアリ』】
 しかし、「スタジオポノック」の作品第一号として、『メアリと魔女の花』は「これでいいんだ」と私は心から思えた。
 
 このブログの冒頭で述べたように、そう思えた理由は、エンドロールにあった。

 『メアリ』のエンドロールには、一般の映画には見られないような、珍しいものが挿入されていた。









「    感謝
 高畑勲 宮崎駿 鈴木敏夫









 この文字を見たとき、私は涙が止まらなくなった。

 私を含む、映画館に足を運んだ多くの観客は、ジブリの大ファンだろう。

 しかし、米林監督も西村プロデューサーも、制作者サイドでありながら、ジブリファンの一人で、
“あの3人”が作ってきたジブリ作品が大好きな人間でもあるのだと、このエンドロールで思い知らされた。

 多大な影響を受けた人物たちとは言え、制作に関わっていない人間の名前をエンドロールに載せたのだ。
 

ジブリに惚れ込んだ2人】
 米林監督に関しては、『もののけ姫』の制作からスタジオジブリ携わり、20年間もの歳月を高畑監督、宮崎監督、鈴木プロデューサーとともに歩んできた。

 さらに、米林監督も西村プロデューサーも、スタジオジブリの方向性が気にくわなくてジブリを去った訳ではない。

 スタジオジブリ自体が解散したため(現在は再開)、泣く泣く去らざるを得なかったのである。

 その事を本当に悔やみ、ジブリ作品の制作を諦めきれず、立ち上げたのが「スタジオポノック」だったのだ。

 逆に言えば、そこまでスタジオジブリに惚れ込んでいたのが、米林監督と西村プロデューサーだった。

【『メアリ』制作の思い】
 だからこそ、「スタジオポノック」で作る映画は、「絶対に“あの3人”に認めてもらいたい」と、米林監督はそう思っていたのではないだろうか。

 実際、制作スタッフを後回しにまでして、一番初めの試写会を高畑監督、宮崎監督、鈴木監督のためだけに行なった(宮崎氏は欠席)。


 

 米林監督が『メアリ』で目指したのは、スタジオジブリを越える事ではない。

 ジブリに頼ることなく、自分達の手で「ジブリの意志」を未来に繋げていけることを証明すること。

 そしてそれを“自分達に任せる”ことを、ジブリのあの3人に認めてほしいと願い、『メアリ』を作ったのではないだろうか。


【「スタジオポノック」に期待を込めて】
 しかし私たちはやはり、スタジオジブリのいちファンとして、「スタジオポノック」にジブリを越える作品を求めてしまう。

 だがそれは、冷静に考えてみれば、とんでもない事を要求している事に気づくはずだ。

 これまで数多くのアニメ映画がそれを目指してきたが、ジブリほど世界的かつ長期的に影響を与えてきたものは未だに無いのだから。


 私もジブリファンとして、ジブリに本気で惚れ込み、人生を捧げ、継承していこうとする彼らを、応援せずにはいられない。







 長くなって、ここまで言っておいて何だが、最後にわがままも述べておきたい。

 やっぱりジブリファンとして、「スタジオポノック」には、ジブリを受け継ぐだけでなく、越えて欲しいと思うのだ。(笑)

 それを目指して、米林監督と西村プロデューサー率いる「スタジオポノック」は、これから想像を絶する困難に言われなくても立ち向かって行くことだろう。


 では、ファンとして私たちは何が出来るだろうか?
 
 それは、『ジブリなんかいいから、米林監督の「スタジオポノック」の作品を観たいんだ』と、メッセージを送り続けることだと思う。

 後出しみたいになるが、私は『メアリ』でもう一つ涙を溢してしまったシーンがある。

 それは、オープニングで、「魔女」が追っ手から逃げるシーンである。

 そのシーンの躍動感や繊細さは、確かにジブリなのだが、ジブリを越える何かを感じられた。素人目で申し訳ないが、確かに心に響くものがあったのだ。


 その期待とメッセージを細々と送りながら、「スタジオポノック」の次回作を待っていようと思う。